昭和49年01月31日 朝の御理解



 御神訓 一、「神の恵みを人知らず、親の心を子知らず。」
     一、「神信心のなき人は、親に孝のなきも人の道を知らぬも同じことぞや。」
 人の道と言う事の始まりは、親の心を知って親に孝行をすると言う事が、人の道の第一だと思うですね。どんなに素晴らしい事を知っておってもです。親に孝行の出来ないという人は、人の道を知らんとと同じです。人の道の始まりというのは、親に孝行をすると言う事。これが人の道の根本であり、始まりだと思うです。またここん所の分からない人に、神の道などが分かるはずは、先ず絶対にないでしょう。
 いうならば親孝行の出来ない人に、良い神信心が出来るはずは絶対ありません。と私は思うです。神信心のなき人は親に孝のなきも同じ事。人の道を心得ずして、親に孝行の心もなくして、神信心してもそれは、神信心のなきも同じ事だというふうにも言えると思うですねだから。人の道の根本です。そこから私は親の心を知らずとこう仰るが、親の心が分かり、そして神の恵みを人知らずと仰る。神の恵みが分かって行く。親の心が分かってそうして、神の心が分かって行く。
 昨日一昨日からブラジルの池尻さんが、こちらへ帰ってきとって、愈々明日帰るというので一晩泊まりでゆっくりして、昨日の朝帰りました。終始言うておる事は、お先祖祭りを心からする気になると、仕事は必ずうまくいくと言う事を、こら自分の体験でしょう。十八年間あちらへ行っておって、大変心も大きい人ですが人間が誠実です。そして何か欲のないそのために、失敗したというわけですけれども。お父さんが亡くなられて此の方、お父さんの御霊様への、子供としての尽くす事法要を営む事。
 日々先祖に感謝をする事。是が本当に出来る人なら、必ず仕事がうまく行くと言うて、そう言う事に気付かせていただいて、まぁここの言葉でいうとおかげと言う事になるがと言うて話しておりましたが。本当に置いたものを取るように順調におかげ頂いておるという話をしてました。それで私はあんたがね、親孝行したいというその一念が、本気でその事を思うと言う事が、天地の機感に叶うから、やはり天地の御恩恵に浴する事が出来るんだよと言うて話した事でした。
 自分は親孝行の気持ちだけで、おかげが頂けれると思ってる。親孝行したいという心持が天地に叶うのです。だから信心の根本人の道の根本が親孝行にあるように、信心の根本もやっぱそこにある。だから私がここに初めてお参りをして来る方達に、必ずこのように申しますことはです。おかげを頂きたい。そんなら天地と何とは繋がりができゃいけん。神様のお喜び頂ける様な心の状態にならにゃいけん。さあ研け改まれと言ったって、中々間に合わないから。
 とにかく親がおるだろうと。いや親はいません。じゃ先祖があるだろう。こら間違いない事だ。だから本気で帰って仏壇のお掃除をしなさい。お花を上げなさい。お水をあげなさい。お茶とうをしなさい。真心込め親にお詫びをしたりお礼を言うたりしなさい。子供として親不孝したいと言う様な子供は絶対、先ずはおらんだろうけれども、本気で親孝行したいと言う子供はそうばさらかおらん。
 だから一つおかげば頂きたいなら本気で親に孝行したい、親に喜んで貰いたいの一念が、神様の心に叶うからおかげになる。おかげ頂きたいなら、その事から先ずだと言った様な意味の話をするんです。昨日池尻さんじゃないですけれども、それで人間は幸せになれるんだとこう言っている。そこで昨日の御理解じゃないけれども、昨日はだから明日いっちょ御祈念に出たい。末永さんにあんた達が起きる時間に、自分を起してくれと言うて、私が、四時に出る時にはお広前に出て。
 初めて金光様の御祈念に参加さして貰い。また昨日の話を聞いたわけです。後から思いよったら、昨日の御理解は彼のために頂いたような感じでしたですね。後で自分もそれを言ってました。初めてあんな話を聞いた。成程本気で親孝行したい本気で先祖を大事にさせて貰う。今度もアメリカに兄さんがおりますから、そこに寄ってみんな兄弟達親戚集まって、大法要をブラジルで営みたいと言う事を、その寄って帰るハワイに。
 それからアメリカ。そしてブラジルへ帰って全部集めて、何もかにも自分が経費をさせてもらって、親戚中でブラジルに両親のお墓がありますから、法要を営みたいと言うて、昨日言っておられましたよ。だから馬鹿の一つ覚えのように、ただそれだけではいけない事が少し分かってきた感じ。それはもう大変な事。大事なこと。だから本当な事と言う事の追求だと。
 より本当な事を分かっていく事だという意味の、昨日御理解でしたからね。いうならばその親も大事だけれども、もっと大きな親のある事に気づかせて頂くと言う所からです。私、親の心を知って、親に孝行する所から神の恵みを知って、神の恵みに対する神恩報謝の心、また天地の親に対する報恩の真を奉げ尽くすと言う所に、御道の信心はあると思うんです。先ず池尻さんは人の道の根本を悟れたわけなんです。
 これがまあだ肉親の親が、本当におる時にこの事に気付いておったら、もっと素晴らしい、親に喜んでもらう事が出来ただろうけれども。それが出来なかった事を残念に思うと言うておりました。親孝行したい時にはもう親がいない。それでも先祖の御霊様を大事にすると言う事によってです。それこそ一変するように、自分の仕事の道がついてきた。しかもそれは人道ですね。いわゆる人の道です。人の道のそれは根本になるものなんだ。ここが出来ずして、信心の道理が幾ら分かった所でです。
 それは根本をなくした信心と言う事になるでしょう。ここが分かっていわば今度はもっと大きな親の心が分かってくる。昨日先日から久富先生ところの、四番目でしたか息子が、結婚式をここで致しました。それから昨日ん晩新婚旅行から帰って、一家中でお礼に出てきました。それで若先生とゆっくり、色々話して弘道君が今東京におります。ハワイ布教の事を聞いた。もう心が躍動しだした。
 こら自分も折角御道の教師として、おかげを頂いて、昔久富先生が許されるなら、ブラジルあたりにでも布教にでも行きたい。一家を挙げて行きたいと言った様な事を、言うておられた時分の事を、子供心に聞いておった。そして今度末永先生がどう言う事になるか分からないけれども、ブラジル布教と言う事についての、前後の色んな催しのあっておる中に、心はブラジルに飛んでおるような状態の末永先生に会ったり。
 また若先生から、ハワイ布教の事が私と、久富先生との話からずっとね、その時分から何とはなしにそういう雰囲気というか、そういう催しが久富の家に始まっとるよと。これは一つほんとに心してお役に立たせてもらわなきゃいかん。折角御道の教師として、お取立て頂いたんだからと言ったようなね。だから先ずお父さんが、教師の資格を得ると言う事も、本部のほうで大体は補教の方は、教師になれないと言う様な決まりがあったんです。所があちらに行かれるならと言う訳でもなかろうけれども。
 そういう条件が揃うたら、道の教師としての検定の試験も許すという意味の事を言うてきとるです。だからお父さんが、先ず本当の意味での御道の教師になられて、お母さんが英語が達者ですから、お母さんと二人で行って、そして一年後なら一年後に嫁後ども連れてまた、弘道があちらに行けば良いじゃないかと言う様な事を、若先生と話し合ったんです。それで昨日その事をしきりにお願いして、昨日帰りましたですけども。
 この事をどうぞ、実現のおかげになるかならんか、私共んごたる不信心じゃ分からんけれども、それを聞かせて頂いたら、心が弾んできたとこういうわけなんです。あの人の、言うたり、したりしてきた事をずっと今思うて見てです。私は昨日こんな事を感じさせて頂いた。夕べ御祈念を終わって部屋に行きまして、休ましてもらいました。そしたらちょっと、聡子みておいてくれと言うてから、私とこの部屋に連れてきました。そしたら私の枕元で偉いおとなしゅう遊びよると思いよった。私は寝ながらテレビを見よった。
 そしたらなんか私に爺ちゃん、爺ちゃんとこの頃言うんです。言うからどうしたかと思うたら私の枕元にあった水差しを、こうやって握ってずうっと、お盆一杯になしとるとこですもん。ちょいとこれがこうこやってそれから大騒動して、拭いたり一杯入れとるわけですお盆の上に。で私は思うたんですけども、はぁ爺ちゃんも言い習ろうたし、こげなこつもし習ろうたと思うてお礼を申しました。こげな悪いこつするなら出来ん。と言う事じゃないですね。そう言う事もし習うたとい鵜事が、有難い事なんです。
 ほんなら私は、久富先生の事を思うたけれども、弘道がと言うけれどもです。弘道がああ言う事も言い習うた、こう言う事もし習うておったと言う事です。だから今度は自分で、東京行きを思い立って、この頃から正月に帰ってくる、今度また帰ってくるして、そうしておるうちに、またこの雰囲気というものが、大変変わっていきよる事に気がついてしてみると、久富先生は弘道の過去の事についてはです。お礼を申し上げなさらなければならない事だと言う事なんです。
 親の心が分かると同時にです。子供の心もやはり親が分からなければいけないと言う事。昨日御祈念を終わって、最後の御祈念をさせて頂こうかと思いよる時に、光昭から電話が架かってきた。御本部の学院に入っとる訳です。そして愈々寒修行も、あとわずかになったから、最後の仕上げの修行に今晩から入りますから、どうぞよろしくという只それだけの事を電話掛けてきた。寒修行が始まっている。これも昨日若先生が今度高校を卒業すると同時に栄四郎が学院に入ります。
 それが申し込みが、今日までだったんです。今自動車学校へ行っとりますもんですから病院に、身体検査をしてもらわなければならない。行けなかった。それで昨日まででそれが済んだそうですから、昨日一人で久留米の病院に行って、それからあれ取って履歴書を書いたり、今日中に教務所を通して、本部に提出するわけなんですけれども。あちらから来ておる書類にです。子供に対する要望を教会長が書かなければならない事になっておる。どげなふうに書いたらよいでしょうか。
 前の色んな例があるだろうから、去年の光昭のを見てみりゃ分かるじゃないだろうかと言うて見た所が、別にないというふうに書いとったらしいですね。だからそげん書いとけと私が言うた。そげなわけにいかんめ折角その要望が何かあるじゃろ。そして神様にお願いさせて頂いたら親身と言う事を頂いた。親の身どうぞ親身になって教導して下さい。とにかく一番末っ子で甘えております。と言うて甘えておるから厳しく躾て下さいと言わんでもこの人は甘えておる様であるけれども、自分に非常に厳しい人です。
 子供ですこの子は。この頃からでも夜中に毛布一枚で休むてな事を何年続けてる。それでそれを止めたかこの頃夜中に私は、ここにお礼に出て来よったら便所のこちらの、真っ暗な廊下のとこに、私は何気なし来よったら、誰かそこに座わっとるもん廊下の上に。そしたら何と栄四郎です。何か自分なりに修行しよるとだろうと思うて、抜き足差し足その横を通って、お礼に出てきたような事があるんですけれども。なるほど甘えてはおるけれども、神様へ向けては非常に厳しくしていってる。
 だから私は御本部へ子供達を学院にやってもです。こげんして下さいあげんして下さいと言わんでも、神様が適当にそれにまた応じてご教導下さるから、そう言う事頼む必要がないわけなんですだから言うならば、昨日私が親身で見ておって下さい。親身で教導して下さいと言う様な事を、恐らく書いただろうと思うんですけれども親が子供の心が分かり、子供が親の心が分かった姿が私共親子の場合はそれを感じます。お父さんがどういうふうにある事が一番喜ぶかと言う事を子供達が知ってると言う事なんです。
 また教師を志した動機を書けとも書いてありました。けれども書きようがないもんな、この人は小学校の時から、作文に書いて僕は親先生になる事が願いだと書いとったもの。親先生ちゃやっぱ偉かつと思おうとった、小学二年生かなんかその位。善導寺の総代さんの渕上先生がまぁだ、その小学校に奉職してられる時でした。大坪さんあんたげん息子はえらいこつ言うばいち。それを見とりなさるわけです。親先生になりたいち書いとった。だから子供の時からの、これは彼の念願ですから。
 動機と言う様な事はないです。そうある事が一番親が喜ぶ事だと信じている。親にあげんもしてやろうこげんもしてやろうと。それも有難い。けれども一番根本の親の願いというものを知った時にです。御道の教師にならなければおられんのが、私共の子供達だと思うんです。ただ子供の中で幹三郎だけは、僕は御道の教師にはならんと。信心はするけれども、御道の教師にはならないと言うて、わざわざ自分で工業学校を選らんだ位でした。所が、ああいう大病を致しましてから心が一変した。
 ずいぶん長く休みましたけれども、成績の上ではどうやらいっとったから、進学も出来るしだからもう一遍高校を卒業する事を、先生も友達たちも来てくれましたけども、もう決った心というものを、はっきり言ってるんです。僕はもう工業学校には関係のない所謂御道の教師を志すのだから、僕は早速御道の信心の修行をするからと。君がそんなに思っているんなら、無理には進めんと言うて学校の先生も言われる位でした。ですから本当に親の心が分かっておったら、すでに御道の教師を志しておったでしょう。
 ああいう大病もしなかったでしょうとさえ思うくらいでございます。けれども神様は、どうしても、親の心を分からせたい。本当のことをなさせたいという働きがあっておる。これは、久富先生と弘道君の場合だって、同じような事が言えると思うです。御道の教師にしてから、言う事する事がです。そう言う事でとこう思うておったけれども。それこそ、聡子が枕元で水差しを、私の枕元のお盆の中にこぼしてしまっておるようにです。しかしこう言う事が出来るようになった。
 ちゃんと水差しの手を握ってから、ずうっと水が出るもんじゃき、それを面白がっとる。自分でめぇめぇ自分で怒りよるんです。けれどもそれがです。こげな悪い事をしてというのではなくて、こう言う事が出来るようになったと言う事です。それは大きな神様の願いか、祈りというものの中にあって、そう言う事になりこういう事になっておるのですから。こら久富先生としては、弘道の事はお礼を申し上げなさらなければならないと言う事になってまいります。
 そしてハワイ布教と言う事は、神様の願いであると同時に、親の願いでもあった事をです。改めて分からせて貰う。本当の意味で親孝行が出来る事になってくる。去年光昭が学院に行く時にです。言う事はないと言う様な事を、願書に書いたのは、恐らく沢山な中に私ぐらいのこっじゃないかと。自分でそんな事を言うた事は知らなかった。去年は確か高橋さんが書いて下さった。だから本当に言う事がないもんですから。そら親が子供を見てから、目に余る事は沢山ありますよ。
 けれども私は神様の働きを信じておるからです。それに対していつの場合でもお礼を言うておると言う事です。あの人は農業学校へ行っとりますけれども、タバコを呑んでそれが何回か発見されて、しばらく停学を食らう様な事があった。だから例えばタバコでも呑み習うたとい鵜事に対するお礼がです。そう言う事もし習うておったと言う事がです。どうしてと言う事じゃなくて、お礼を申し上げる事であると思うです。その後において彼が神様に向かう、修行心と言った様なものを、やっぱり強くなってきた。
 例えば寒修行を勿論学院で一同でやっとるでしょうけれども。後三、四日になった残りわずかになった最後の追い込みの修行をです。本気で今晩からその事に入りたいと思うから、よろしくお願いしますと言うお取次ぎを頂くほどしに信心が成長しておる。別にそれだけの事。はいお取次ぎさせて頂くよと。言うなら折角息子から電話の架かってきとるけん、こちらのみんなの模様やら修行の状態やら、も少し聞きもしたい言いもしたいと言った様な人情を捨ててしもうて、只その事だけを願う私は。
 これは子供の心が分かり親の心が分かって、信心がそのようにして成長していっておると言う事なんです。御道の教師は嫌だと言うておった者でも、私がそう言う事があるから教会に生まれて、御道の教師にならんてんなんてんというのは、一口も私は申しませんでした、幹三郎にはその当時でも。けれども神様がお育て下さる事を信じておるから。そしたらああいう大病と言う事になった。その大病が彼の一生の方針というものがです。また神様の願いというものが、そういう風にして成就して行く事になってきた。
 私は思わせて頂きますのに、親の心が分かり子の心が分かって、そして一切を神様にゆだね任せて、そしてそこにどの様な場合でも、そげな悪いことしてと普通では言うところだろうけれども。そう言う事が出来るようになったと言う事に対する、私はお礼のほうが先だということです。三代金光様が沢山のお孫さんがおられます。お部屋に入って障子を破ったり、襖を傷つけたりしておられるのを見て、たまたまそこに行き合わせておられた、ある先生がです。
 お孫さんたちがあんまり暴れなさるもんだから、大変賑やかな事でありなさいますねと言うて、ご挨拶申し上げたら「はいよく働いてくれます」と仰ったそうです。子供は障子を破ったり襖を汚したりしとるのはね、子供なりにそれは働いておるのだ。そういう頂き方の中にです。働いておる事に対するお礼と言う事になってくるのです。それは場合には目に余る様な事もあるです。そう言う悪い事をしてと言わずにです。そこにそう言う事が出来る様になった事に対する、お礼を申させて頂く様な心が信心です。
 それは神の恵みが段々分かって来る所から、出来る事です。そういう神の恵みを人知らずと仰る。神の恵みを分からせて頂く為に、神の恵みだけをです。聞いただけでは本当の事は分からない。その根本にある所の親の心子知らずという、親の心を分からせて貰うて、本気で親に喜んでもらいたい。親孝行の一念を燃やすほどしの心からしか、神の恵みは、本当に意味においては分からない。人の道というけども人の道と言う事は、親孝行が根本だ。先祖を大事にするという事がそれが信心の根だ。
 そこから先祖祭りをすりゃ、商売が具合よう行くからと言う様なものではなくてです。そうしなければおられない心から発して、御霊様を大事にすると言う所から、いわば事業がよい具合になって行ったと言う事。そうしなければおられない心がです。天地の機感に叶うたのだ。だからここの所から、例えば池尻さんで言うならば、本当の信心が出来る時に、愈々神の恵みを実感として分かる事が出来るだろう。御霊様がそんなに色んな人間の幸せを左右される様な力を持ってござる筈は絶対にありません。
 それは金光大神においても然りです。金光大神が力を持ってござるのじゃない。金光大神の心が天地に通うから、その天地の働きが、いろんな人間の幸せをもたらせてくる働きになってくるのです。先祖を大事にするから、先祖が働いてくれるのではなくて、そういう人の道を知って人の道を尽くすから、その事が天地の機感に叶うから、商売が発展してきたようやく事業が軌道に乗ってきたという働きになってくるのです。だからその時点で、池尻さんがもうとにかく、先祖祭りさえすりゃ良かばっかり言うとったんでは、それは大変ちゃちな親孝行と言う事になります。
 初めて今度日本に帰って来て、そして昨日の朝の御理解を頂いてです。これはもっと本当な親というか、大きな親に対する所の心が分かって、言うなら神の恵みが分かって、神の恵みに応える、天地の親神様へ対する高揚が出来るようになった時、本当の神の恵みが分かったと言う事になるのだと言う事になります。「神信心のなき人は、親に孝のなきも同じこと」どんなに、親孝行をしておってもです。
 それまでではつまらん。その親孝行を通して、天地の親神様に親孝行が出来るようにならなければ、人の道を知りそして、神の道を知ったとは言えない。人の道だけではおかげにならん。神の道を知った時に、初めて人間の幸せが約束される。力を受けるとか徳を受けるというけれども、先祖が徳を下さる事も、力を与えて下さる事も出来ない。出来るのは、天地の親神様なのだ。
 どうぞ神の恵みをと言う所を、親の心親の恵みを先ず知って、それに応える心が生まれた所からです。実感として親神様の心が分かる。子供を持って合点せよと。天地の親神様が、氏子の事を思うて下さる心を悟れとこう仰る。自分の子供が可愛いと思う様にです。天地の親神様もまたそれこそ、もっともっと偉大な大きな心で、私共の上の事を思うておって下さる。氏子信心しておかげを受けてくれよ。
 どうぞと言わんばかりのお言葉が、御教えの中にもありますよ「氏子信心しておかげを受けてくれよ。」氏子親孝行をしておかげを受けてくれよとは仰ってない。けれども親孝行は、人道の元であるから、そこの元を分かって、神の心が分かる。神の恵みが分かる。親神様の心が分かって、親神様のお心に添い奉る生活を、本当の信心の道だと、私は思います。人の道も知らぬこと。
 私は本当に人の道も神の道所か、人の道も知らぬ人が沢山あるだろうと思う。親不孝したいとは思ってない。けれども本気で親孝行したい。本気で先祖を大事にしたいという人はです。そう沢山はいないのです。いないと言う事は本当の人の道を知っておる人は、沢山はいないと言う事になります。人間でありながら人間の道を知らないと言う事は、是はおかしな事。そこから神の恵みが分かって神の道が分かる。それを信心と言うのです。
   どうぞ。